日常生活をおくるすべての人々が例外なく、派手に段階を踏み外したというのに、いまとなっては、私が例外的に秩序の背骨の襞に居残ることになりました。開き直って、私の頭上をリズミカルに駈けていく階段の人々、それらの誤解した身も蓋もない所業、その看板作りに対して、私は度を越したようなポジションを作り出し、見下し、誇ってみせようとしていたのかもしれません。しかし、それはもうやめていました。ただ、私の眼のまえにきっちりとみえているこの場所のプラットを、丁寧に、限りなく建設的な未来への兆しとして演出し、表現してみせる他ないという、そのことを信じつづけていくことにしました。過去の地平を果てまで見渡そうとすれば、襞の住人たちが、辛抱強く、かなしみを持続させて、風の流れになでられる道路を紡いできたということに気づけるはずでした。それにしても、文脈を学問し、ゲートキーパーと徒党を組み、自己を系譜に位置付けることで、現在を再認識するという真っ当な方向性は、いまや御伽噺の妄想の域に陥りました。私は幸いなことに、襞との圧倒的な出会いを果たし、その感動が再び伝わり、覚醒を引き起こす一瞬に賭けている芸術の、自らの長距離的な意志をしなやかに受け容れることができ、遮二無二突き進む道路をクロスさせていくような可能性にも、たしかに触れました。コロナ禍に突入し、私は地層の順序に拒絶され、なんとかして、もどりたいとねがってもいましたが、やはり、底深い溝がもたれる水平に広がる更地の、捲土重来を期すひとりの芸術の使徒として、己の志を心根から掘り起こしました。多くの歴史もまた、再構成され、羅列したことばの紙背に、生々しく断絶する現実との相剋の烈しい闘いが記録されているのだと思います。さて、現代において、パンデミックの独自の当事者問題や軌道修正のための犠牲に、既存の踏み台は、ことごとく粉砕し、腐敗の臭いを漂わせています。そして、それは自然発生的な一気呵成の場所を指し示す威力や閾的な意義をもった祭りなど、さまざまなメタファーをどっと憑依させて、2020年以降、明らかに新しい幕開けをみせつけています。このばあいの、あたらしさを、「アート」を考えようとするとき、その様相や価値の語りを正しく作成できる後任者について、もはや、私以外のだれかが見受けられているような、鈍感極まった眼なのであれば、さっさとくりぬいてしまうのが、よろしいかと思われます。お大事になさってください。